最近、造船に忙しくこちらのブログは更新がすっかり疎かになってしまいました。
「造船」と言っても模型の船です。これについては、
ベルリン造船所というブログを作りましたので関心のある方はどうぞご覧下さい。
その造船所で今建造中の船は
TSS Stefan Batoryというポーランドのオーシャンライナーです。この船は、そのモデルの説明書きによれば、もともとは1948年に建造されたHAL所属のSS Maasdam(現在のではありません。その先代です)だったものを、1968年にポーランド・オーシャン・ラインが購入、改造し、1969年以降にポーランドとカナダ(モントリオール)間の航路に就航しました。そして何と1980年代に至ってまで大西洋の定期航路に就航していました。
フォークランド紛争でQE2が戦地に赴くと大西洋横断航路の客船はこれが最後になってしまったそうです。
しかし飛行機の時代にどうして、しかも観光大国でもないポーランドという国の船がこれほど長く活躍できたのでしょう。その理由は、どうもポーランド人の行動様式にあったようです。
私の義理の両親、つまり妻の両親は1960年代にカナダに研究滞在したことがあるのですが、行きは船旅でした。SS Orsovaという船だったそうです。聞くところによると、そのとき既に航空運賃と船賃はさほど変わらない額になっていたとのことですが、なぜ飛行機でなく船を選んだかというと、飛行機に比べて持ち込める荷物が格段に多かったからということでした。料理の得意な義理の母は、醤油をはじめカナダでは入手できないであろう食材を持てるだけ持って乗船したそうです。定期航路で船が飛行機と競争する時代、船にはそういうメリットが残っていたんですね。
話をStefan Batoryに戻しますが、この船が飛行機に対してポーランド人の支持を集め、80年代になるまで航空路に対抗することができたのも携行荷物の量によるとのことです。ポーランド人の行動様式と表現しましたが、ポーランド人は荷物の多い国民だったのですね。
ここからは私の想像なのですが、乗客になったポーランド人は、北米大陸とポーランドの間で、いわば荷物の担ぎ屋のようなことをしていたのではないでしょうか(そういう光景は、今でもシベリア鉄道に乗ると見られるのではないでしょうか。担ぎ屋はポーランド人ではなく中国人ですが)。カナダやアメリカで例えば電化製品などをかなり大量に仕入れて国に帰って売却する。そんな商売をしていたポーランド人も多かったのではないかと想像します。
そんなことはどこにも書かれていなかったのですが、ちょっと思い当たる節があります。この話はベルリンに長く住む人から聞いたことなのですが、ベルリンの壁が崩壊した直後、つまり1989年、90年頃だと思いますが、ポーランド人がベルリンに大挙して押し掛け安い電化製品などを買いあさって帰って行ったそうです。西ベルリンの当時の中央駅だったツォー駅からほど近いところにカント通りという街路がありますが、そこにはそんなポーランドをはじめ東欧諸国からの買い出し客に応えるにわか「量販店」が沢山でき、ポーランド人はバスを仕立てて押し寄せていたそうです。
そんなことを考えながらポーランドの客船模型を作っていますが、あと少しで完成です。