ご挨拶

乗り物好きを自任していましたが、このところ徒歩での旅行がマイブームです。

2011年1月9日日曜日

新コーナー:ベーカー・ベルリン

新しいコーナーを作りました。船旅とはあまり関係なさそうなのですが、個人的には結構「あり」なのです。

船旅が好きで、浅田次郎の『シェラザート』を読まれた方、いらっしゃいますか。あの中で船のパン焼き職人は、厨房ではシェフに次ぐ、あるいは同等のランクだということが書かれていました。戦前、外国航路に就航していた船ではそういうこともあったのでしょうね。ひょっとして今もそう?

料理は各国それぞれの料理があり、乗客の国籍による好みもあるでしょうから、甲乙をつけるのが難しい。しかし日常のパンとなると、甲乙がはっきりとついてしまう。そうなると一流の船には一流のベーカーという組み合わせがあっても不思議ではありません。そうなるとベーカーの地位が高いというのは説得力がありますよね。

そしてベーカー⇒パンと言えば、私の中ではドイツ。ドイツのパン、これが結構うまいんです。そして私のドイツ人の友人の従兄弟がパン焼きで、日本の有名クルーズ船に勤務していたことがあると聞いて、やはり外国航路-パン-ドイツ人のベーカーという連想が私の中で定着しました。

この連想の連環は他にもあり、書き出すときりがありません。そんな連想から、船旅や船について書くはずのブログでパンをテーマにします。どうぞお許しあれ。

そしてここでとりあげるのは、どこの船でうまいパンを食べたとか、どこにうまい店があるということではなく、コーナーの名前にある通り、自分がベーカーになったつもりでパンやケーキを焼くというもの。焼くにあたっては、主としてドイツのレシピ本を使います。

ドイツと食、あまり結びつかない組み合わせですが、素朴な美味しさが私の周りの食通の間で話題になっているんですよ。

さて最初は何を焼きましょうか。

2011年1月6日木曜日

欧亜連絡鉄道の夢

日本は空前の「鉄」ブームで鉄道に関する書籍、情報が続々と世に出ているようですね。私もAsahi.comに載っていた広告を見てどうしても欲しくなり帰国中だった女房に頼んでムックを買ってきてもらいました。

それがAERA Mook『昭和の鐵道と旅』。


特に読みたかったのが「東京発パリ行き。大列車時代」という記事。戦前に「奇跡的」に実現した東京発、大陸経由、西欧着の鉄道連絡ルート。もちろん日本と大陸の間は関釜鉄道連絡船、大阪-大連航路、敦賀-ウラジオストック航路(後の二者は鉄道連絡ではなかったのかな)が入っています。

記事によれば東京を発つと最短ではベルリンに15日目、パリには16日目には到着したそうです。1990年に私がシベリア鉄道を使って陸伝い、日本海を渡って日本まで旅行をした時、出発はブタペスト、到着は横浜でしたが、モスクワでの1泊を含め車中泊と船中泊で12泊でしたから当時とそれほど変わっていないと言えるでしょうか。

インド洋、スエズ運河、地中海を通れば1930年代後半の「東アジア急行汽船」(現在ブログ「ベルリン造船所」でそのうちの一隻、ポツダム号を建造中)を使ってもブレーメンと横浜は35日もかかったそうですから倍以上の速達だったと言えます。


寝台車とは言え汽車に揺られての旅ですし、荷物の積み替えや、体制の異なる国を含め多くの国境を通過する旅ですからけして楽なルートではなかったでしょうが、コンコルド並の超特急ルートだったんでしょうね。

ムックでは、林芙美子などこのルートを使って旅した人がとりあげられていますが、私の知っているところでは零戦を開発した堀越二郎設計者も、戦前このルートでベルリンにたどり着き、ドイツでユンカースの工場を見学し当時の航空機製造の先端技術を学んで帰ったということです(柳田邦男『零式艦上戦闘機』)。今では鐵道浪漫主義者くらいしか使わないルートですが、当時は実務者が利用するビジネスルートだったのでしょう。

今では船による欧州-東アジアの定期航路となると貨物船しかありませんが、鉄道は越境上のいろいろな制約があるとはいえ、定期旅客交通路として健在です。いつかまた陸伝いに日本に帰国してみたいもの。できれば今度は満州里経由で大連から大阪へ。朝鮮半島経由というのはいつ実現するかわかりませんね。欧亜連絡鐵道ルートは、それくらい「奇跡的」だったと言えるかもしれません。

2010年12月12日日曜日

ヴァンゼー冬景色

12月12日日曜日。先日、ブランデンブルクのローカル放送でハーフェル-オーデル運河(ベルリンの北方、ハーフェル側とオーデル川を結ぶ運河)の新造砕氷船投入が報じられていました。内水の砕氷船なんて日本人にはちょっと想像できませんが、そんなのもあるんですね。

今年のヨーロッパは歴史的な寒さになるとの予報が出ていますが、ベルリン周辺の水系の遊覧船はどうなっているのか、運航しているのか、氷に閉ざされているのか気になってヴァンゼー湖に出かけてみました。

薄氷でも運航していればヴァンゼーからクラドーまでの渡船にでも乗って砕氷船気分を味わおうと思ったのですが、行ってみるとやはり港は氷に閉ざされて、渡船も遊覧船もすべて運航を取り止めていました。この調子だと春まで運休なんでしょうか。


ベルリンの渡船 リヒターフェルデ

クラシックな遊覧船 ラインラント

閉鎖状態の遊覧船のチケット売り場 寂しいぃ

2010年12月9日木曜日

荷物の多い旅は船で

最近、造船に忙しくこちらのブログは更新がすっかり疎かになってしまいました。

「造船」と言っても模型の船です。これについては、ベルリン造船所というブログを作りましたので関心のある方はどうぞご覧下さい。

その造船所で今建造中の船はTSS Stefan Batoryというポーランドのオーシャンライナーです。この船は、そのモデルの説明書きによれば、もともとは1948年に建造されたHAL所属のSS Maasdam(現在のではありません。その先代です)だったものを、1968年にポーランド・オーシャン・ラインが購入、改造し、1969年以降にポーランドとカナダ(モントリオール)間の航路に就航しました。そして何と1980年代に至ってまで大西洋の定期航路に就航していました。

フォークランド紛争でQE2が戦地に赴くと大西洋横断航路の客船はこれが最後になってしまったそうです。

しかし飛行機の時代にどうして、しかも観光大国でもないポーランドという国の船がこれほど長く活躍できたのでしょう。その理由は、どうもポーランド人の行動様式にあったようです。

私の義理の両親、つまり妻の両親は1960年代にカナダに研究滞在したことがあるのですが、行きは船旅でした。SS Orsovaという船だったそうです。聞くところによると、そのとき既に航空運賃と船賃はさほど変わらない額になっていたとのことですが、なぜ飛行機でなく船を選んだかというと、飛行機に比べて持ち込める荷物が格段に多かったからということでした。料理の得意な義理の母は、醤油をはじめカナダでは入手できないであろう食材を持てるだけ持って乗船したそうです。定期航路で船が飛行機と競争する時代、船にはそういうメリットが残っていたんですね。

話をStefan Batoryに戻しますが、この船が飛行機に対してポーランド人の支持を集め、80年代になるまで航空路に対抗することができたのも携行荷物の量によるとのことです。ポーランド人の行動様式と表現しましたが、ポーランド人は荷物の多い国民だったのですね。

ここからは私の想像なのですが、乗客になったポーランド人は、北米大陸とポーランドの間で、いわば荷物の担ぎ屋のようなことをしていたのではないでしょうか(そういう光景は、今でもシベリア鉄道に乗ると見られるのではないでしょうか。担ぎ屋はポーランド人ではなく中国人ですが)。カナダやアメリカで例えば電化製品などをかなり大量に仕入れて国に帰って売却する。そんな商売をしていたポーランド人も多かったのではないかと想像します。

そんなことはどこにも書かれていなかったのですが、ちょっと思い当たる節があります。この話はベルリンに長く住む人から聞いたことなのですが、ベルリンの壁が崩壊した直後、つまり1989年、90年頃だと思いますが、ポーランド人がベルリンに大挙して押し掛け安い電化製品などを買いあさって帰って行ったそうです。西ベルリンの当時の中央駅だったツォー駅からほど近いところにカント通りという街路がありますが、そこにはそんなポーランドをはじめ東欧諸国からの買い出し客に応えるにわか「量販店」が沢山でき、ポーランド人はバスを仕立てて押し寄せていたそうです。

そんなことを考えながらポーランドの客船模型を作っていますが、あと少しで完成です。

2010年12月3日金曜日

シャルンホルスト以前

トラフィックがあまりありませんので、ちょっとメモ代わりに使います。今の関心は、歴史の船旅に向いているのですが、1930年の半ばにシャルンホルスト、ポツダム、グナイゼナウが東アジア航路(日本から見ると欧州航路)に就航する以前のNDLの使用船がわかりました。

Trier(トリアー)、Fulda(フルダ)、Coblenz(コブレンツ、総トン数9449 t)、Saarbrücken(ザールブリュッケン、総トン数9449 t)だそうです。シャルンホルスト等が就航したことでトリアーはトルコに、コブレンツとザールブリュッケンはイタリア政府に売却されたそうです。典拠はP. Kuckuk, Die Ostasienschnelldampfe.., S.52.

トリアー、フルダ、コブレンツ、ザールブリュッケンはいずれもドイツの都市の名前です。

2010年11月3日水曜日

ノルウェーの郵便汽船で

ドイツにはKarstadtという百貨店チェーンがありますが、その旅行コーナーに行くと毎月特選の船旅のパンフレットが置かれています。

今月はノルウェーの郵便汽船Hurtigrutenを使ったクルーズが紹介されていました。


フィヨルド観光で有名なBergenから、スカンジナビア半島沿岸の入り江や島々をめぐって最果てのKirkenesまで6日間かけて北上する「クルーズ」です。

郵便汽船と言っても今の船は、一部を除いてクルーズ船の様相を呈しているのですが、そこは地元の住民の足であり、物資供給の命綱でもある貨客船のこと、最新鋭のきらびやかなクルーズ船とはちょっと違います。設備はずっと充実していますが、東海汽船や小笠原海運のような雰囲気を感じるのは私だけでしょうか。

そういえば、私の友人の知り合いが、このクルーズに参加したそうです。その人は「わざとらしい」「キッチュ」な贅沢クルーズではなくて本物の旅がしたいのよ、といってこの郵便汽船による旅を選んだんだそうです。

そういう「本物の航路」ですから、停泊はお客の乗り降りと荷物の積み降ろしが主な目的あり無名の小さな集落や島々を巡ることでしょうから、「クルーズ」を期待しているとがっかりなのかもしれませんが、実は結構人気のツアーのようですよ。

そして実は私も憧れています。まさに東海汽船?って感じの船も就航しています。それに乗ってみたい。

2010年9月30日木曜日

ドイツ-東アジア航路

久しぶりの更新になりました。

このごろ過去の船旅に思いを馳せています。関心の対象はドイツと東アジア、日本を結ぶ航路。

最近は、Die Ostasienschnelldampfer SCHARNHORST, POTSDAM und GNEISENAU des Norddeutschen Lloyd(『北ドイツロイドの東アジア急行汽船 - シャルンホルスト、ポツダム、グナイゼナウ』)という本を読んでいます。



船の歴史に詳しい方には説明の必要はありませんが、これらの船は1930年代の半ば、ドイツが国家の威信をかけて建造し東アジア航路に就航させた船です。それまでブレーメンから上海までドイツの船では52日もかかっていたのを34日に短縮させた画期的な俊足船です。

しかし北ドイツロイド社が単独で建造するには資金確保が難しく、当時のナチス政権下の政府から得た補助金をつぎ込んで実現した船です。その俊足は、その後欧州航路向けに造られる日本郵船の新田丸級にも影響を与えたことでしょう。新田丸級にも優秀船として国からの資金援助が入っていたということですから、この急行汽船と似ていますね。そして両方とも三姉妹というのも同じ。ただドイツの三姉妹は、それぞれ個性が強く、日本の三姉妹に比べるとあまり似ていないシュヴェスター(姉妹)です。

シャルンホルストは、日本に来航していたとき(正確には日本からの帰途)に第二次大戦が勃発し、帰りの航海ができなくなり、日本に留まりました。その結果、戦時中、優秀船として国家の援助で造られたNYKの新田丸級が航空母艦に改造されたようにシャルンホルストも日本に売却された後に日本海軍の航空母艦、神鷹に改造されました。その俊足が災いしたということになりますね。

紹介した書籍は、Prof. Dr. Peter Kuckuk(Dr. ペーター・ククーク教授)の作ですが、内装の写真もあって当時の船旅が偲ばれます。