ご挨拶

乗り物好きを自任していましたが、このところ徒歩での旅行がマイブームです。

2011年1月6日木曜日

欧亜連絡鉄道の夢

日本は空前の「鉄」ブームで鉄道に関する書籍、情報が続々と世に出ているようですね。私もAsahi.comに載っていた広告を見てどうしても欲しくなり帰国中だった女房に頼んでムックを買ってきてもらいました。

それがAERA Mook『昭和の鐵道と旅』。


特に読みたかったのが「東京発パリ行き。大列車時代」という記事。戦前に「奇跡的」に実現した東京発、大陸経由、西欧着の鉄道連絡ルート。もちろん日本と大陸の間は関釜鉄道連絡船、大阪-大連航路、敦賀-ウラジオストック航路(後の二者は鉄道連絡ではなかったのかな)が入っています。

記事によれば東京を発つと最短ではベルリンに15日目、パリには16日目には到着したそうです。1990年に私がシベリア鉄道を使って陸伝い、日本海を渡って日本まで旅行をした時、出発はブタペスト、到着は横浜でしたが、モスクワでの1泊を含め車中泊と船中泊で12泊でしたから当時とそれほど変わっていないと言えるでしょうか。

インド洋、スエズ運河、地中海を通れば1930年代後半の「東アジア急行汽船」(現在ブログ「ベルリン造船所」でそのうちの一隻、ポツダム号を建造中)を使ってもブレーメンと横浜は35日もかかったそうですから倍以上の速達だったと言えます。


寝台車とは言え汽車に揺られての旅ですし、荷物の積み替えや、体制の異なる国を含め多くの国境を通過する旅ですからけして楽なルートではなかったでしょうが、コンコルド並の超特急ルートだったんでしょうね。

ムックでは、林芙美子などこのルートを使って旅した人がとりあげられていますが、私の知っているところでは零戦を開発した堀越二郎設計者も、戦前このルートでベルリンにたどり着き、ドイツでユンカースの工場を見学し当時の航空機製造の先端技術を学んで帰ったということです(柳田邦男『零式艦上戦闘機』)。今では鐵道浪漫主義者くらいしか使わないルートですが、当時は実務者が利用するビジネスルートだったのでしょう。

今では船による欧州-東アジアの定期航路となると貨物船しかありませんが、鉄道は越境上のいろいろな制約があるとはいえ、定期旅客交通路として健在です。いつかまた陸伝いに日本に帰国してみたいもの。できれば今度は満州里経由で大連から大阪へ。朝鮮半島経由というのはいつ実現するかわかりませんね。欧亜連絡鐵道ルートは、それくらい「奇跡的」だったと言えるかもしれません。

2 件のコメント:

  1. Berlinerさま
    こんにちは。
    憧れますが、大変そうですね…。
    私の友人が、Berlinerさまとは逆に、陸路で欧州を目指し、大阪-新潟-ウラジオストク-モスクワのルートでシベリア鉄道の旅をしてきました。もう20年ほど前の話ですが…。
    飛行機でヨーロッパへ向かうときに、眼下にひたすら広がるシベリアの白い凍土を眺めたことがありますが、あれを地上から見ると…と思うと、ちょっとわくわくします。
    でも、北京-重慶の普快(鈍行に近い長距離快速列車)での2泊3日で長く感じた私には、情けないですが苦行の旅かも知れませんね…。
    敦賀-ウラジオストクのルートの日本側港となった敦賀では、何年か前に、敦賀港線に客レを走らせたりしてイベントをやってました。
    では、失礼します。

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  2. 鉄軌さん、コメント有り難うございます。
    20年前というと私が乗ったのと同じ頃ですね。シベリア鉄道は、景色の変化が乏しく退屈する以外は楽な旅でしたよ。退屈したくて乗ったのですから、十分楽しい旅でした。あまり停車しませんから。
    経験はありませんが、中国の普快なんて走ったり止まったりで、たとえ寝台だとしても疲れるでしょうね。どんな席だったのですか。まさか座席の方?
    シベリア鉄道の長距離列車は、ご存知の通り座席はありません。ソフトクラス(1等)、ハードクラス(2等)、エコノミークラス(3等)というカテゴリーがありました。社会主義の国でしたから「クラス」というのは外国人向けの表現だと思いますが。
    私の関心は、この3つのクラスは中国の列車に置き換えるとどれに相当するのかってことです。名称からすると、1、2等は中国の軟臥、硬臥みたいですが、設備や定員からするとハードクラスとエコノミークラスが中国の軟臥、硬臥になるのではないかと思うのですが、そのあたりの対応関係はどうなっているかご存知でしょうか。北京-モスクワにも列車が走っていますので、それがどんな扱いなのか気になります。
    北京発、満州里経由、モスクワ行きは戦前の欧亜連絡ルートに近いですね。乗ってみたいものです。

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