ご挨拶

乗り物好きを自任していましたが、このところ徒歩での旅行がマイブームです。

2012年5月1日火曜日

内田百閒『第一/二/三阿房列車』を読む

鉄道の旅行記が読みたいというわけではく、友人に内田百閒の研究をしている人がいたので、どんなものを書いているのかと思って読んでみた。これまで百閒先生のものは、読んだことがなかったが、日本郵船や鉄道などに顔の利く人だということくらいは知っていた。

今でこそ鉄道趣味にも大分市民権が認められるようになったが、『阿房列車』の時代には乗りたいというだけで鉄道に乗車するのは、本当に馬鹿、阿房の類いとしか世間は思わなかったのだろう。まあ、今でもそういうことはあるので、当時なら当然かもしれない。

私ももう中年の域に達したので、鉄道の昔のことを知らないという訳ではないが、蒸気機関車や東海道線の花形特急列車「つばめ」「はと」のことは書物と模型でしか知らない。書物と言っても本格的な読み物ではなく、子供向けの図鑑の類いが多かったので、正確な知識を体系的に得たわけではないので、ほとんどは思い込みに近い知識しかない。

それでもどちらかというと私の子供時代に走っていた最新電車特急よりは、古い客車列車が好きだったので「阿房列車」で書かれている内容もなんとなくわかり、あるいは想像できて面白くもあり、またある意味で懐かしくもあった。

百閒先生は、特に一等車がお好きで、一等車が繋がっていなければ、三等車の方が好ましいというくらいの極端な方で(というわりには、一等がないローカル列車や急行になると、三等車よりは二等車に乗っているような気がするが気のせいだろうか)、『阿房列車』を読んで一等車についての知識が広がった。

ちなみに一等車というのは、今のグリーン車とは格が違う。今のグリーン車は、もちろん当時とは居住性の点で比べようもないが、三等級時代の二等車の末裔である。一等車というのは、幹線の特急や一部の急行などにしか連結されていないもので、庶民はもちろん、お金に余裕のある人でもおいそれとは足を踏み入れられないものだったようだ。

私は庶民に籍を置く者だが、鉄道趣味人(子供の頃、女の子に「電車気違い」と呼ばれていたく傷ついた)として、そんな鉄道の聖域とも呼べるような一等車に憧れと関心を抱いたことがあるが、私の浅い知識では、そんな一等車というのは戦後では「つばめ」と「はと」の一等展望車くらいしかなく、あとは一等と言えば寝台車に一等と言う等級があったに過ぎないと考えていた。しかし内田百閒を読んで、この知識は訂正が必要だということがわかった。

簡単に言えば「一等寝台車」の認識に誤りがあったということ。「寝台車」と言うからには、夜行列車で夜に横になるためのものとばかり思っていたが、どうもそうでもないということが、『阿房列車』を読むと垣間みられる。百閒先生、急行に乗るときには一等寝台車の「コムパアト」に席を取ることが多いようだが、昼は部屋の中が陰気だと言ってコムパアトではない開放室(夜はプルマン式の寝台)に出て来て時間を過ごしているということがわかる。となると一等寝台車というのは、昼は一等座席車でもあるということになる。

また電車・新幹線時代の私の偏見で寝台車というのは夜の主役だとばかりおもっていたが、当時の長距離列車では半分は昼間使われていることがよく理解できた。東京から九州まで走る急行列車では、24時間を越える旅程も珍しくはなかったということを考えると、一等寝台車を一等座席として昼間だけ使うこともできたのだということが分かってくる。ただし『阿房列車』では一等寝台を昼間だけ使うという旅行のことは出て来ないので、寝台を使わずに一等座席としてプルマンをあるいはコムパートを使えるかどうかということはなお検討の余地がある、ということは付け加えておきたい。

もっとも一等寝台車を一等座席として使えたとしても、コムパートなら個室として利用価値はあるが、ただ広いだけで、特にリクライニングシートが備えられた特ロ(特別二等車)が登場してからは、一等に乗りたいというだけで、プルマンの昼座席を使おうという人がいたかどうかははなはだ疑問が残るのだが。

『阿房列車』は、旅行記、乗車記としてよりは、歴史旅行記、鉄道考古学の本としてとらえた方がいいだろう。

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