ご挨拶

乗り物好きを自任していましたが、このところ徒歩での旅行がマイブームです。

2011年12月27日火曜日

美貌の観光ガイド、カール

美貌の観光ガイド、カールのことをご存知の方、いますか。彼は日独のハーフで、1990年代のベルリンの壁崩壊直後に活躍していました。主に個人の旅行のアテンドをしていたようで、ときには約束をすっぽかしたり、レンタカーを借りると言っては自分の乗りたい車、案内期間外まで借りてちゃっかり私用するといった抜け目ないところがありました。

それでもお客の要望によく応え、お望みとあれば観光客が行かないような裏町にまで案内してくれていたようです。

当時は、学生の身分でベルリン工科大学に籍を置いていたようですが、後に芸術大学に移った可能性もあり、自称芸術家でもあったそうです。

と言っても、彼は実在の人物ではなく、桐野夏生の小説の登場人物。私の読んだ限りでは『顔に降りかかる雨』と短編集『ジオラマ』に登場しています。

1990年代前半と言えば、壁が崩壊し、東西ドイツ統合後の混乱期。通常の観光とは違った目的の「観光」や取材で訪れる個人旅行の日本人も多く、そういった特殊ニーズの個人に対して、根無し草的な人間にしか知らないようなベルリンを案内し、体系化されていない報酬を稼いでいたカールのような「観光ガイド」もいたことでしょう。桐野氏もベルリンを取材に来て、そんな観光ガイドに会ったのでしょうか。

どなたか、そんなカールをご存知ではないですか。

『顔に降りかかる雨』によれば、Bregenzer Straßeに住んでいたということです。この通りは、ベルリンのWilmersdorf区に実在します。




この通りからは、西ベルリン一番の繁華街だったクーダム通りも近く、カールのような学生が住むにはちょっと家賃が高かったのではないかと感じさせる場所。彼のバイトは、それほどぼろい儲けだったのか。あるいはだれかとシェアして住んでいたのかも。

2011年12月23日金曜日

ベルリン - アブダビ - 東京

ベルリンを拠点とするAir Berlinと、アラブ首長国連邦の首都アブダビを拠点とするエティハド航空の提携が発表されました。アラブ首長国連邦というとドバイのエミレーツ航空がおなじみですが、新興のエティハド航空も同国にあって急成長を続けている航空会社。日本にも乗り入れています。

私は以前、日本への一時帰国に何度かエミレーツ航空を使ったことがありましたが、ベルリンにはまだ乗り入れていないため、Fly & Railを使ってハンブルク、デュッセルドルフ、ミュンヘンまで行き、そこからドバイを経由して関空、そしてそこでJALに乗り換えて羽田へとたどり着きました。エミレーツ航空のサービスは秀逸だったのですが、やはり鉄道での移動が必要というのがネック。ドイツの空港を飛び立ってから羽田に着くまで20時間以上を要します。

今回のAir Berlinとエティハド航空の提携で、空路のみによるベルリン発、アブダビ経由、東京行きなんて実現するのでしょうか。2012年1月15日以降、Air Berlinは週4便をアブダビに飛ばすそうですから来年に期待しましょう。

詳しい情報は、提携に関するAir Berlinの発表で確認して下さい。

2011年12月21日水曜日

タクシー!

タクシーの話題。

ベルリンは、電車、地下鉄、路面電車、バスと公共交通機関がよく発達しており、自動車を持たない私もほとんどの場合、定期券さえあればどこに行くのにも用が足りる。深夜も夜間運行する地下鉄や路面電車はあるし、そうでない主要路線には深夜バスが代行するので夜中でもタクシーに乗ることは滅多にない。

とは言え、全くタクシーを使わないわけではない。例えば空港への往復。重い荷物を両手に抱えるような一時帰国のときはどうしてもタクシーのお世話になる。

そのタクシーだが、空港から自宅に帰るのに使おうと思うと、飛行機がテーゲル空港に着陸する前から憂鬱になる。理由は我が家が空港から近過ぎるから。料金が安くて結構だと思われるかもしれないが、これが実は憂鬱の原因。

タクシーに乗って自分のアパートの所在地を言ったときのタクシー運転手の嘆きと言ったら・・。近すぎることに露骨に嫌な顔をして、ため息を吐くドライバー。俺が手招きしたのはお前じゃないのに・・などとやり場のない落胆を吐露する者もいた。成田を午前中に発つとベルリン・テーゲル空港には、一日の最後の時間帯に着くことが多い。一日の最後にロングを願っていた運転手の気持ちはわからないではない。

タクシーが空港に乗り入れるのには特別の許可が必要なのだそうだが、許可を得たドライバーが多すぎるのか、空港は客待ちのタクシーで渋滞ができるほど。したがってお客を乗せるまでにドライバーが待つ時間も相当長い。長〜く待った末に短い距離では割に合わない。

しかしそれはドライバーの事情であって、お客の都合ではないから、短い距離だからと言って遠慮する必要はないのだが、長旅、時差ぼけの家路をようやくベルリンに戻ってきたときのご挨拶としてはいただけない。滅多に乗らないタクシーなんだから、笑顔で迎えて欲しいもの。笑顔でなくてもいいから、お客を不快にするような態度だけはとって欲しくない。

嫌な思いを避ける対策はいくつか考えられる。例えば、行き先を予め言ってそれでも良いかと了解をとる。これは以前やってみたが、うまくいかない。近過ぎる目的地を聞いたとたん、乗車拒否。それなら後ろの車に・・と試みようとすると、それもまかりならんとあっちへ行けと追い払われる始末。私が後ろに並ぶ車に乗ったとなると、前の車が乗車拒否したということが明らかになってしまうので、前の車のドライバーをこれをいやがるのだろう。

では予め、例えばトランクを積んでもらったときにチップを渡しておくというのはどうか。これなら近すぎる目的地を告げても不機嫌な顔をされなくて済みそうだが、どうもドライバーの機嫌を取っているような感じがするので、実行する気になれない。

ならばどうする?

私は、通常のタクシー乗り場でなく、空港正面玄関のバスの停留所脇に停まっているタクシーを使うことにしている。ここのタクシーは、近くの目的地を告げても嫌な顔をしない。

その理由は、その場所が正式なタクシー乗り場でないから。ここにいるタクシーは、空港へお客を運んで来たタクシーで、お客を降ろせばさっさと空港から出て行かなければならない車。本来は空港でお客を拾ってはいけないのだろう。だから行き先がどんなに近いところでもお客を拾えれば、それはそれでラッキーなのだ。ときどき律儀に、ここではお客を拾えないのだ、と言ってさっさと出て行く車もあるが、ほとんどの車は乗せてくれる。

正規のタクシー乗り場で客待ちをしているドライバーには申し訳ないが、私はいつもこの方法を使うことにしている。

2011年12月4日日曜日

ワイン山通り(Weinbergsweg)

「ベルリンはワイン生産の北限を越えている」とは、なぜベルリンの地酒ワインがないかを説明するときに使う口上だが、その北限がどこにあるのかは極めて曖昧である。ベルリンだってブドウを作付けして実らないことはない。ポツダムのサンスーシ宮殿のテラスにはブドウが植えられているのをご存知の方もいるはず。

だから、やや正確に言うならば「商業的生産の北限を越えている」と言えば良いのだろうか。つまりワイン(ブドウ)を栽培したときの収量や品質によって、それを売っても儲けにならないとなると、その北限を越えている、ということになる。しかしこれとても時代によって変わってくるものであり曖昧さは免れない。

交通機関が整備されていなかった時代は、うまくもないワインが少量しかできなかったとしても、外からの輸送費用を考えれば十分に採算の取れた場合もある。そういうところはだいたい鉄道の開通とともに地元のブドウ栽培、ワイン醸造業が衰退、消滅している。一方、それとは逆に観光業が盛んになってくると、うまくなくてもその土地の味を味わいたいという需要も出てきて、いったん衰えたブドウ栽培、醸造業が復活したところもある。

外から入ってくるワインの品質と値段に負けて、こんなところでワインを作っても明日は知れたものだと撤退したにもかかわらず、観光業が昔からの伝統としてワイン文化があったなどと吹聴するのはけしからん話だが、数年前にザクセン地方を旅したときには、いったん衰えたという事実を伝えた上で、外から訪れる観光客のためにワイン産業が復活した、と地元ワインを出すレストランに説明があったのには感心した。好ましく思い、うまいとは言えないワインを味わってみようかという気にもなったものだ。

さてベルリンでも、かつてワイン栽培が行われていたかどうか。頑固な農家が、まずくても売れなくても自家消費用に細々と作っているという話はまだ聞いたことがないが、街の地名にはいくらかブドウ栽培の痕跡を留めている。

ドイツ語でワイン/ブドウを意味するのはWeinという言葉。ワイン山ならWeinbergだが、それが付いた地名は、ほとんどなくなってしまったが皆無ではない。ベルリンのミッテ地区(「ミッテ」とは中央だから、ベルリン中央区ということか)に、Weinbergsweg、直訳すれば「ワイン山通り」という通りが残っている。




「通り」を意味する単語にはWegの他にStraßeという言葉もあり、こちらは英語にすればstreetだから、街の中の通りをイメージさせる。wegはどうだろうか。私には細いあぜ道のよなものを連想させるが、確かではない。

手元に『ベルリン街路名事典(Lexikon der Berliner Straße)』という本があるが、それによればこの通りは、1845年にはその名前があり、そこにあったワイン山に因んでいるとのこと。

今では街中の最も繁華な地域に属するようになってしまったが、当時はここも葡萄畑が広がる丘陵地帯だったようだ。下の二枚の写真は、地下鉄駅もあるRosenthaler Platz(ローゼンタール広場)の交差点から見たもの。





写真は、一番低い交差点から北北東方向を向いて撮影したものだが、奥に行くに従って上り坂になっているのがわかる。当時は丘陵の南側斜面で、ブドウ栽培に適さないベルリンとは言え、その中では最も日当りの良い場所だったのだろう。

次の二枚の写真は、坂を上がって広場方向を見下ろして撮影したもの。





 山と言っても、傾斜はこの程度でそれほどの急斜面ではなかったようだが、当時はベルリンの街を見下ろせる見晴らしの良い土地だったのだろう。ここで乏しい陽光を最大限に利用してワインを栽培していたのなら、その健気さが愛おしくも思えてくる。